1977年の『スター・ウォーズ / 新たなる希望』の公開から42年、2019年12月20日に公開された『スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け』をもって映画史に語られるスター・ウォーズ・スカイウォーカー・サーガはその幕を降ろしました。
熱狂的ファンを世界中に多く有する『スター・ウォーズ』シリーズの完結編というだけあって、その結末には世界中からハンパじゃない期待が寄せられていました。そして迎えたワールド・プレミアでの先行上映。一足早くその結末を見届けてきた海外の人たちの声は「良い映画ではあるが最高ではない」「間違いなく最も複雑な『スター・ウォーズ』」など、満足と多めの不満が盛り込まれた、正直微妙な感想でした。
かく言う僕は、世界中のガチ勢に比べるとそこまで熱狂的なファンとは言えず、割と普通レベルのファンだと思います。正直マーベルやDCコミックスといったヒーローアメコミに比べると、そこまで思い入れはありません。もちろんスピンオフを含む全作品は一通り観てますけどね。
そんな僕も長い歴史を持つ『スター・ウォーズ』の歴史的瞬間を見届けるべく、迎えた一般公開の日、劇場へ足を運びました。そして2時間半後、劇場から出た僕の脳裏によぎるのは「不満」の2文字。なぜそう思ったのか、鑑賞から時間を置いてよく考えてみました。
そこで再びメガホンをとることになったJ・J・エイブラムスは、取り繕うように『スカイウォーカーの夜明け』を製作しましたがそこには多くの「急ごしらえ」感を感じずにはいられません。
まずスノークという絶対的な悪を失い、ブレるカイロ・レンだけではストーリー的に不十分と感じたのか、死んだはずのパルパティーンをゾンビのように復活させました。パルパティーンをわざわざ復活させる必要があったのか。それは往年のスター・ウォーズファンへのファンサービスの意味もあったのかもしれませんが、結局はジェダイvsパルパティーンという過去を再現しただけです。
そしてルークもファンが望むような英雄感のあるキャラクターとして描かれ、「私が間違っていた」とまで言わせる始末。海に沈められていたX-ウイングを再登場させるあたりにもファンの機嫌を取るような演出に思えてなりませんでした。さらにライトセーバーを捨てようとしたレイに対して「ジェダイの武器には敬意を払え」と。いやいや、あなたライトセーバー捨ててましたよね!?
レイの正体についても『最後のジェダイ』で「誰でもない」、つまり「誰もがジェダイになる可能性がある」ことを示していたハズ。パルパティーンの孫娘というやや今更感のある設定を加えたことで、その可能性を打ち砕いて再び血縁関係をめぐる展開に戻っています。なぜレイがパルパティーンの孫でなければならなかったのかはわかりません。レイは「誰でもない」ままでもジェダイの歴史を背負えたと思いますし、スカイウォーカーの名前を受け継げたハズです。
さらに言えば、チューバッカがレイのせいで死んでしまったかもしれないという展開についても実は船が違うというオチで早くも再登場するし、C-3POがこれまでの記憶と引き換えに重要なシスの言葉を翻訳するという涙を誘うくだりも結局はR2-D2によってあっさりと記憶が蘇っています。これらの演出に何の意味があったのかよくわからないし、必要なかったのではないでしょうか。
ランドの再登場も本当に必要だったのか、最後にカント・バイトの少年をわざわざ映したのは何だったのか。『スカイウォーカーの夜明け』はファンサービスに終始しながら中途半端に結末を迎えたように思います。
『フォースの覚醒』で過去の『新たなる希望』を思い返すような演出を描き、『最後のジェダイ』でそれをバッサリ捨ててオリジナル性の高い物語にしようと試み、そして『スカイウォーカーの夜明け』でそれを真っ向から否定するように結局過去に執着する物語となってスカイウォーカー・サーガは終わりを迎えました。新たな3部作を全体で見て成功したかと言えば僕は失敗したと思います。
『スター・ウォーズ』の世界はまだこれからも続いていきます。42年続いてきたスカイウォーカー・サーガを完結させるということは、未来へ繋ぐ物語の基礎を築くということでもあるはず。ファン全員が否定的な考えではないかもしれませんが、もしもJ・J・エイブラムス、もしくはライアン・ジョンソンが3部作を全て担当していたらもっと違う結果になっていたのかもしれないと思います。